二月、如月(きさらぎ)旧暦正月の正節、「立春」は春の初めという。この原稿を書いている一月、睦月(むつき)、「小寒」の頃、みなかみ無為庵は深い雪の中にある。「大寒」を過ぎ節分の頃になると益々、厳寒を迎える。昨日を耐え、今日を耐え、明日も耐える。まさに大自然の営みの中でちっぽけな人間の非力を痛感させられる季節である。
むかえる二月三日「節分」は旧暦の立春の前日、節を分けるという。つまり一年の大晦日のことである。中国ではこの日、食が交わると書く、餃子を食べて子孫繁栄を願う地域が多い。日本では平安時代から宮中で「追儺(ついな)」の式が行われ、季節の変わり目に生じる邪気(鬼)を追い払う悪霊払いが源にある。
「鬼は外!福は内!!」節分には寺社や家庭から声が聞こえてくる。節分は、幸せを祈る行事である。幸せを妨げる鬼は、様々な縁によって自らの心に生じるもの。そして福は、謙虚な自己の心に育つもの。そう念じたいものだ。
春立つという言葉の持つ印象からはほど遠い立春は、二十四節気の春の初めなのに厳寒の頃なのはなぜか。ここには陰陽五行思想の「陽極まって陰に転じ、陰極まって陽に転ず」という考え方がある。寒さ(陰)も極まると暖かさ(陽)に転じるということから厳寒の時期に春の始めを感じたのであろう。人の一生でもどんなに今、苦しく辛くても、どん底を知ればやがて春は来るのだ。
さて年の始め、私はテーマとして禅語を考える。今年は「吹毛常磨」(すいもうつねにます)を選んだ。言葉の意味を自分なりに解釈すると、能力にあぐらをかいてしまったら鋭さは鈍り、堕落が始まるという意味である。
修行に終りなし、教える立場になったら益々教える為の学びがあり、心と身体の技術が錆びない為に今日の一歩が大切なのだ。
治療家として本年は30年の節目を迎えるが私はこれを職業、仕事と思った事はない。毎日の人との出会いが成長させてくれる「幸せの縁」なのだ。もちろん楽しい事ばかりの日々ではなかった。帰国して何年間は肩こり、腰痛など外科的整体の方が多数だった。ある時、足首の捻挫をしていることを問診、初心(触診)で気づかず悪化させて謝罪したり、施術中「もういい、やめてくれ!」と訴えられたりした時には、自分の技術の無さを痛感させられたりもした。冬の一日、山村の集会所に出張し朝から夜まで一人も施術を受けに来ていただけなかった事もあった。やがて内科的施術や心療内科的な施術も増えて、毎日が学びで必死だった。ある時は「生きてる意味がわからない」と訴えた女性の言葉を聞き流し、その女性は一週間後に自ら命を絶ってしまった時は「何故?」と落ち込みもした。またある時は数年間毎月施術してきた一〇四才のおばあちゃんが亡くなった時は、ご家族から御礼の言葉を頂き、治療家になって本当に良かったと思えた。「納得のいく生死」のお手伝いをさせていただくもの治療家の役目だと気付かされた。医師から歩く事は出来ないと告知されていた方に化粧をすすめ「今日はキレイだねぇ!」と施術中言葉をかけ続け、半年後には歩けるようになったり、手術の失敗で大小便が出るのがわからなくなった方が自らの努力でわかるようになり、共に号泣し約束通り桜の頃の嵐山を散歩したり、目の前の人と「幸せ」を共有させていただいたりし、今日に至っている。私自身も11年前、脳出血という病気から左半身麻痺という今思えば大きなギフトをいただいたおかげで成長できたと思える。
今、私は難病で苦しむ方、余命宣告を受けて絶望感の方、心の病で苦しむ方など様々なご縁がある。そんな方々と寄りそって「小さな幸せ」を見つけられるお手伝いができたら私も幸せだと思う。そう私自身が幸せでなかったら、他人の幸せに寄りそうことなどできないことを再認識して今年を生きよう!
人生半ばの回顧録 vol.21
翌日、これからの事を民宿の先輩と打ち合わせしていると、福祉課長に呼ばれた。すると現村長と話し、議会に提出して通ったら、村の西洋医学の診療所の一室に中国医学施術室を作り、村の嘱託職員として村民の健康増進に力を貸してくれないかというありがたい話しであった。しかもこの提案をしてくれたのが、夕べの祝宴に来ていただいた議会議長だから、まず議会は通るという事だった。この話をいただき、私は中国でも日本でも本当に助けていただいているのだと感謝せずにはいられなかった。こうして私の日本での新たな生活が始まったのだ。
診療所には西洋医学の医師が交代で派遣されてきていた。その中の一人の医師が、中国医学に大変な興味を持っていて、時間があれば話をさせていただいた。
ある日診察方法や病名の出し方などを議論していると「そうだよな!病名が決まらないと治療できないというのはおかしいよ!やがて西洋医学的方針には限界が来るね!僕は今でもそう感じている。これからは『医薬食同源』。予防医を受診するために人が病院を訪れずる時代になるよ!」と目を見張りながら話してくれた。さらに「僕はね、延命治療ならばするべきではないと思っている。治らない病気もあるし、それが人間の寿命ならば死は決して悪いことではない。だから苦しまずに安らかに旅立つ手伝いも医師の役目だと思うんだよ!」この話を聞いて、日本の医師の多くがこういった考え方をしてくれていると勘違いに気づいたのは後々の事ではあった。
私の診療所での施術も1年が過ぎようとしていた。勿論、施術は無償でさせていただいた。今までの村への恩返しの気持ちと自身の勉強を兼ねて当たり前に思っていた。
西洋医学(西医師)を訪れる患者で肩凝りや腰痛の患者や正直どこも悪くないが診療所に来ることで安心できる方などが中心で西医師は「ばあちゃん、今日は隣の中国先生の所に行ってみな!」と廻されてくるのだ。するとおばあちゃんは「先生に言われなくても順番に行ぐさぁ」と私の部屋に入ってくる。「居たかい?こんちわ!中国先生元気かい?金も取らねぇでちゃんとうんめいもん食ってるかや?若けえから、うんと食わねえと病気するど!」どちらが患者だかわからない会話が日常茶飯事だった。ある時はキャベツをまたある時は大根人参を皆さんが差し入れてくれた。診療所での患者さんとの会話は私の日本での問診技術の基礎を創ってくれたと思う。
そんなある日、いつも通り西医師から一人の患者が廻されてきた。「どうぞ、入って下さい。おっ!お父さん久しぶりだねぇ」私が話しかけると患者はいつもの陽気が消え、腰に手を当てて顔にシワを寄せて話しだした。「中国先生、夕べから腰が痛くて朝起きた時、いつものギックリ腰みたいに痛くて参ったよ」。「そうかい、こっちに座れるかい?」そう促すと右足を引きずる様にゆっくり歩きだしたが、上半身は左に曲がっていた。顔を診ると色は暗い青色で舌は濃い紅、舌苔は黄色く厚い。舌裏には静脈が出現し、舌質は両側に歯痕が出ていた。カルテを見ると、いつもの舌象とは全く違っていた。脈を診ても異常を感じたので、ゆっくりと横になってもらい、腹を触診してみた。あきらかに通常の腰痛とは違っていた。私は身体全体から経穴(ツボ)を経絡(通り道)に沿って配穴押圧し、西医師を呼んだ。
「先生、この患者さんはおそらく胆石による腰痛だと思います。舌診、脈診、問診、顔面診もそして今取ってもらった尿からも判断できると思います。すぐ検査して下さい」こうやり取りしていると患者さんが診察台から起き上がり「いやぁ!たまげた(驚いた)。中国先生がツボを押したら痛え痛え!だけどほれ!起きられるし、ほれ!立てるよ!たまげたぁ!すげえんだなぁ中国のツボっつうもんは!」とすっと立っているのに西医師も驚き「治ったんじゃないの?」と囁いてきた。私はカルテを見せながら強く「何言ってるんですか!前回の舌や脈とは違って、あきらかに病気が内側にあることを教えてくれているんです。これは西洋医学的処置が早いと思います」と話した。「わかった、すぐに病院に搬送する」。この患者はその日の内に手術で大きな胆石を取り除き、数日後元気に顔を見せてくれた。「中国先生、ありがとうな!医者がこんな大きな石見たことねえって言ってたさ!おかげで、ほれ!元気になったぜ!」と四股踏みをしてみせた。私は早速診察させてもらい、西医師に漢方エキス製剤を処方してくれるように頼んだ。
その日の夜、西医師は何故手術予後、この処方をするのか根拠を教えてほしいというので、遅くまで議論したことをおぼえている。
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(つづく)